伝えたいことが伝わる文章の書き方

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 「いい文章を書きたい」と考えたとき、その場合の「いい」というのは具体的にどのような内容を指すのでしょうか。方針は各種各様ですが、文章の目的が相手に何かを伝えることであると考えると、その答えは自ずと「伝わる文章」に集約されてくるかと思います。

 要するに、伝わる文章であることが、その先にある個々の「いい文章」を規定する土台になるということです。もちろん、伝わることだけが「いい文章」を規定するわけではないのですが、少なくとも、ひとつのエッセンスとして無視できない事柄でしょう。

 ちょっと考えてみるとわかるように、伝わらない文章が「いい文章」であるケースは少ないです。たとえば、詩や小説などの文学作品は、必ずしもストレートに何かを伝えるものではありませんが、そこには、読み手の心に深く伝わる何かがあります。

 あるいは、商業文や随筆(エッセイ)などであっても、やはり書き手は読者に対して何かを伝えようとしていますし、それが伝わらなければ共感や納得を生むこともなく、やはりいい文章であるという評価はなされないでしょう。

 その点において、いい文章かどうかのひとつの判断軸は、伝わるという点にあると考えて問題なさそうです。そして伝わるというのは、読み手が理解できることに始まり、共感や納得を通じて、言うなれば「腹落ち」へと至ることを指します。

 頭で理解するだけでは、必ずしも「伝わった」とは言えません。「理解できたけど納得できない」という相手がいたとき、「それでも自分の文章は伝わった」と考えてしまうのは、少々、傲慢な気がします。やはり、できることなら、納得も得たいものです。

 誰もが賛成し、納得するような文章には価値がないという意見もありますが、少しでも多くの人が納得・共感を得られるような文章を目指すことも、書き手の姿勢としては重要でしょう。少なくとも、何ら納得・共感のない文章は、ただの独りよがりだからです。

 だからこそ、「伝えたいことが伝わる」という視点は、ものを書くすべての人にとって欠かせません。そして伝わるというのは、ただ相手が理解できるということではなく、納得や共感を引き出せる文章であるということなのです。

■「伝わる」とはどういう状態か?

 ここであらためて、「伝わる」ということについて考えてみましょう。伝わるというのは、相手(読み手)が理解できることに加えて、相手の共感や納得を引き出せるということでした。「理解→共感・納得」という流れが大事です。

 それは言い換えると、論理としての理解から、感情としての共感・納得への変遷と表現してもいいでしょう。人は、論理だけでは動きません。論理に伴って感情が動いてこそ、実際の行動につながります。それは文章でも同じです。

 コミュニケーションの要諦が「他人に(動的・静的)変化をもたらすこと」であるとすれば、伝えるべきことを伝わるように伝えることによって相手の理解を促し、そこで相手の感情が動いた結果、実際の行動に結びつくことが大切です。

 ごく日常的な会話であれば、ただ表面的な情報を伝える・伝わるのでもいいのですが、一定の目的をもって文章というコミュニケーション手段を選択した以上、何らかの変化を相手から引き出せなければ、その目的は達成られたことになりません。

 その点において、「伝わる」ということは、論理(ロゴス)から感情(パトス)を引き出し、さらには信頼(エトス)へと至るのが理想と言えそうです。言いたいことが言えただけで満足せず、相手の行動を引き出せてこそ、伝わる文章と言えるのです。

■伝えたいことを明確にする

 そのために必要なのは、あらかじめ「何を伝えたいのか」を明確にすることでしょう。具体的には、「何を伝えることによって」「相手に何を期待しているのか」ということです。期待の先には必ず、何らかの行動があります。

 たとえば、「最近、交通事故が増えているそうだよ」という言葉の裏側には、「だから事故を起こさないように気をつけて運転してね」という意思と、その先にある相手への注意喚起、言い換えれば「行動変容への期待」があると考えられます。

 親しい間柄であれば、「気をつけてね」というたった一言でも、その裏側にある意図をお互いに理解し合えるはずです。そしてその一言が、単なる注意喚起から習慣へ、習慣から意識へとつながり、それぞれの確定された行動に結びつくのです。

 一方で、それほど親しくない間柄であれば、適切に言葉を選び、より伝わるような工夫をしなければ、伝えたいことも伝わりません。当然、その先にある注意喚起や行動変容も容易ではなく、エビデンス、論理、さらにはパトスやエトスに至る中身も必要でしょう。

 そしてその前提となるのが、伝えたいことを事前に明確化しておく工夫です。自分が何を伝えたいのか理解していなければ、それを相手に伝えられることもなく、また書かれるべき文章の方向性も自覚できません。

 自分が何を書くべきなのかわからないまま筆を執るというのは、あたかも不思議な行為のように思われるかもしれませんが、実際にはごく一般的に行われています。とりあえず白紙に向かうというのはまさに、その最たるものです。

 あらゆる行為には事前準備がつきものですが、よく準備されていないプレゼンテーションが大した成果を生まないように、きちんと準備して書かれていない文章もまた、相手に何かを伝えることができず、またその先の行動変容も引き出せません。

 少なくとも、事前に自分が何を伝えたいのか明確にし、そのために必要な情報を集め、適切な構成を考えていなければ、適切な文章を書くことはできません。それが、文章を書く際の、最低限の準備と言えるでしょう。

■「伝える」と「伝わった」のあいだにあるもの

 文章を書き上げた瞬間は、何らかの「伝えたいこと」がただある状態に過ぎません。そのままでは、必ずしも伝わるものになっているとは限らず、またムダも多いかと思います。底から先は、文章に手を入れていく段階となります。

 完成された文章がもたらすものは、「伝わった」という結果です。書き手の希望が「伝える」ことであるとすれば、その「伝える」と「伝わった」の間にある作業こそ、書き手が切磋琢磨して手を入れた文章への工夫に他なりません。

 「伝わった」という結果は非常に大事ですし、また「伝える」という意思も文章作成には欠かせません。しかし、「伝える」と「伝わった」のあいだにあるもの、それこそ書き手の努力であり、汗であり、その他あらゆる労力こそ、尊いものだと思います。

 少なくとも、そこに時間をかけたという自覚が、書き手の能力を高めていくのではないでしょうか。結果的に、「伝える」と「伝わった」のあいだに何があったのかは目に見えませんが、そこに費やした時間と労力は決して無駄になりません。

 そしてその試行錯誤にしか、伝えたいことが伝わる文章を書く方法はないのです。小手先のテクニックにすがるのは簡単ですが、個々人の内面にあるものが異なっている以上、書くことは自分にしかできず、自分の文章はそこにしかないのです。

 そうであるなら、「伝える」と「伝わった」のあいだにできる限りの時間と労力をかけ、模索し、奮闘することこそ、書き手を成長させる要因になるのではないでしょうか。伝えたいことが伝わる状態は、自分で作り上げる以外にないのです。

 他方で、「伝える」と「伝わった」のあいだにある推敲の跡は、必ず読者の胸に刺さり、それが一定の価値を提供することにつながります。伝えたいことが伝わる文章は、そのようにして建設され、蓄積され、積み上がっていくものだと思います。

■まとめ

・文章は伝わってこそ価値がある。
・伝わることは他人に変化(行動変容)をもたらす。
・伝えたいことは事前に準備しておくこと。
・「伝える」と「伝わった」のあいだに書き手の工夫がある。

 伝えたいことが伝わる文章を書くために、日々、書きながら工夫を重ねていきましょう!

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