「ものを書くのが苦手」「読書がなかなか続かない」。
そのような人ほど、執筆や読書をむずかしく考えすぎてしまっているものです。しかし本来は、ものを書くのも、何かを読むのも、日常で行うごく一般的な行為にすぎません。事実、私たちは日々、気軽に何かを書いたり読んだりしているはずです。
それが、いざ「何か書いてみよう」「何か読んでみよう」と意気込んだとき、途端に書けなく・読めなくなってしまう。その理由は、単純に気負いの問題もありますが、それぞれの行為を大上段に置き、むずかしく考えてしまっているのが原因です。
そこでまずは、肩の力を抜きましょう。何か壮大なものを書こうとする必要はありません。また、誰もがうなるような作品に仕上げる必要もないのです。また、読書によって人生を変えたり、何か大きな学びを得ようとする必要もないでしょう。
そうではなく、気軽に何かを書いてみること。さらに、ちょっとしたスキマ時間に何かを読んでみること。そこから、執筆や読書ははじまります。何を読む・書くにしても、リラックスして当然のごとく向き合ってしまえば、そこから緩やかな習慣がはじまります。
もちろん、最初から「執筆をし続ける」「読書を趣味にする」などと思う必要はありません。最初の気持ちを大切にし、とりあえず何か書いてみる・読んでみるだけでいいのです。そのような気持ちが生じるタイミングが増えれば増えるほど、自然とくり返せます。
それでも、ものを書いたり何かを読んだり(したいのに)できないという人は、それぞれの行為を“日常的な行為”に置き換えてみましょう。わかりやすいのは、執筆を「料理」に、読書を「食事」にたとえてみることです。
実は、執筆は料理と似ています。まず何を作るのかを考えて、調理手順と作れるかどうかを確認し、必要な材料をリストアップし、材料を買い求め、実際の調理を経て、味を整えながら、完成へと至ります。
執筆に関しても似たような流れがあります。まず何を書くのかを考えて、執筆手順と書けるかどうかを確認し、必要な素材をリストアップし、素材を集め(取材)、実際の執筆を経て、加筆修正・推敲しながら、完成へと至ります。
他方で読書や食事の場合は、手順はそれほどなくシンプルなものの、「それを食べる(読む)ことによってどうなるのか」を考えながら摂取することが大切です。どのようなものを、どのような頻度で「食べる・読む」のかによって、その後の人生も変わります。
このように、執筆を料理に、読書を食事にたとえてみると、それぞれの共通点や相違点が見えてきて、これまでとは異なる観点からそれぞれを捉えることができます。そうすると、執筆・読書に対する姿勢も変わってくるのではないでしょうか。
■執筆とは何か
ところで、そもそも執筆とはどのような行為を指すのでしょうか。とくにここでいう執筆とは、端的に「ものを書く」ことを指しています。どのような媒体に書くのかを問わず、何らかのものに、何らかの文章を書くこと。それが執筆です。
たとえば、個人的な日記やブログを書くのも執筆ですし、フェイスブックやツイッターなどに書き込みをするのも執筆です。当然、雑誌や書籍など、有料の媒体に文章を書くこともまた執筆です。後者はとくにプロの仕事ととなります。
ただし、プロでもアマチュアでも、執筆に必要な態度はそれほど変わりません。たとえ自分しか読まないものであっても、真摯に、そしてわかりやすく書くことが、ものを書くことのファーストステップとなります。無理にむずかしく書く必要はありません。
また詩や小説など、文学性の高い作品を書くときでも、ことさらに抽象的な表現を用いようとする必要はありません。むしろ、感情や情景をわかりやすく伝えようとする姿勢から、自然と生じる言葉の選択を大切にするべきです。
どんな文章至難の本でもそうですが、「むずかしく書きましょう」と主張するものはありません。なぜなら文章というのは、そもそもがコミュニケーションを行うためのものだからです。そこには、他人だけでなく自分にも「伝える」行為が含まれます。
誰かに何かを伝えようとするとき、わざわざむずかしく表現することは、そのための意図がなければ避けるべきです。もちろん、結果的になかなか伝わらないということはあって然るべきですが、無意味なむずかしさは不親切となってしまいます。
そのため、自分にも、他人にも、わかるように書いてみる。イメージとしては、書く対象について、説明するように、語りかけるように、書いていくといいかと思います。そのような意識で書き続けていると、肩の力を抜いて執筆できるようになるでしょう。
■読書とは何か
一方で、読書とはどのような行為なのでしょうか。読書とは、端的にいうと何らかの文章を読むことです。文章には短いものも長いものもありますが、いずれを読むのでも、本来は読書と表現して差し支えないかと思います。
ただし、ごく一般では、いわゆる「本(書籍)」を読むことを読書と表現されています。そのため、インターネット上の記事やSNSの文章を読むことを読書とは言わず、ただ読んでいると表現されることも多いようです。
しかしそれでは、時代の流れを反映できていないように感じます。本を読むことだけが読書なのであれば、その対象は限られてしまい、いわゆる「読書離れ」を助長することにもなり兼ねません。ウェブ記事でも、漫画でも、「読書」と言っていいのではないでしょうか。
なぜなら、読書のハードルを上げることで、読書離れはより加速してしまうと考えられるためです。情報は必ずしも本から仕入れるだけのものではなく、新聞、雑誌、ウェブサイト、ソーシャルメディアなど、さまざまな文章から得られるものです。
それらすべてを読書と表現すれば、読書離れを意識する必要もなくなります。少なくとも活字に接している以上、文章を読む習慣そのものは失われておらず、とくに日本では識字率の高さから誰もが文章を日常的に読んでいます。
そのため、読書を広く捉えることによって、多くの人が読書をしている現状を正しく認識することが大切かと思います。少なくとも、それによって読書のハードルを下げ、多くの人が楽しめる状況こそ、読書そのものを支える環境であると思います。
■執筆と料理の共通点
さて、ここであらためて、執筆と料理の共通点について掘り下げてみましょう。冒頭でも紹介しているように、料理と執筆には次のような手順があります。
<料理の流れ>
①何を作るのかを考える
②調理手順を確認する
③作れるかどうかをチェックする
④必要な材料をリストアップする
⑤材料を買い求める
⑥調理を行う
⑦味を整える
⑧完成
<執筆の流れ>
①何を書くのか考える
②執筆手順を確認する
③書けるかどうかをチェックする
④必要な素材をリストアップする
⑤素材を集める(取材)
⑥執筆する(構成→執筆)
⑦加筆修正・推敲
⑧完成
もちろん、これらはあくまでも手順の一例であり、料理も執筆も、その流れは一様ではありません。そのうえで、自分なりのやり方を精査しつつ、より良い調理・執筆ができるよう工夫していく必要があります。
そのような前提に立ちつつ、それぞれの流れについて見ていきましょう。
まず、料理も執筆もその対象について考えることからはじめます。料理であれば「何を作るのか」、執筆であれば「何を書くのか」を考え、そこから次の手順である「どのような流れで」を検討していきます。
とくに執筆の場合は、何らかの目的があることが多いでしょう。たとえば、「手紙を書く」「報告書を書く」「日記を書く」など、提出者や投稿先、あるいは想定読者があり、それらを踏まえて何をどう書くのかを検討していく必要があります。
一方で料理の場合は、目的が2つしかありません。つまり「自分で食べるため」か「自分以外の人が食べるため」です。そのいずれかに応じて、何を作るのか、どのように作るのかを検討していきます。
実は、こうした発想は執筆にも応用できます。執筆する文章も、大きく括ると「自分のため」「誰かのため」という2つの方向性があり、それぞれに応じてどのように書くべきなのかを検討できるためです。
もちろん、誰かのために書いた文章が、実は自分のため(自分が読むため)にもなったというケースがあるのですが、いずれにしても、対象が自分か他人かを明確にしておくと、取り組む姿勢や伝え方が意識しやすくなるでしょう。
さて、作るもの・書くものが決まったら、次にその対象を「作れるか・書けるか」と考えていきます。料理の場合、レシピがあれば作れるものも多いですが、材料の調達や使用するキッチン道具など、状況に応じて適不適があるかと思います。
実は執筆に関しても、「必要な資料を集められるか」「自分の知識が活かせるか」「分量は使える時間や労力に見合っているか」などを考え、書けるかどうかを考えていくことが大事です。そうしないと、せっかく書き始めても途中で断念してしまう可能性があります。
さて、作れる・書けると判断できたら、次に必要なものをリストアップ・ピックアップしていきます。料理であれば使用する材料を食料品店などで購入し、執筆であれば使用する書籍や雑誌、ウェブサイトの記事、さらにはインタビューなども行います。
材料が集まれば、実際に調理・執筆を行っていきます。狭義の料理・執筆はこの部分を指しており、実際の行動としてもここが一番、楽しいところかと思います。使える時間と労力に折り合いをつけながら、作業に没頭していきます。
調理・執筆の目処がつき、材料がかたちになったとしても、それで終わりではありません。そのままでは、“美味しい成果物”になっていない可能性があるためです。そこで、料理であれば味を整え、執筆であれば加筆修正・推敲をしていきます。
細かい作業が苦手な人や、性格的に大雑把な人は、これらの作業を省いてしまうこともあるでしょう。料理や執筆そのものを楽しめればそれでいいと考える人も、味を整えたり、推敲したりすることは避けるかもしれません。
しかし、自分のためであればまだしも、誰かに提供するものであれば、やはりこの過程は外せません。ここで丁寧に確認し、必要に応じて追加したり取り除いたりすれば、成果物の質はより向上します。その点、大切な工程と言えるでしょう。
これらの流れを経て、料理・執筆は完成へと向かいます。できあがったものは、時間や労力に見合ったものとなっているでしょうか。そうでなくても、一連の行動を経て経験したことが、次に生かされることは間違いありません。
■読書と食事の共通点とは
他方で、読書や食事の場合は、料理や執筆のように明確な手順がありません。もちろん、人によっては細かく流れを規定している場合もあるかと思いますが、基本的には、自由に行なわれるのが普通でしょう。
一方で、重要なのが「それを食べる(読む)ことによって何を得られるのか」という発想です。単純に欲望のまま食事をしたり、本を読んだりしてもいいのですが、それだけだと手近な感情に動かされてしまいます。
そうではなく、食事であれば「楽しみ」や「健康」も一緒に食することによって、料理の価値はさらに高まります。食器、場所、食事をする相手など、さまざまな工夫を重ねることによって、食事がもたらすものは大きく変わるのです。
日本人の場合、料理の見た目や味を楽しむ傾向がある一方、西洋人はコミュニケーションを楽しむ傾向があるようです。どちらが良いということではなく、それぞれの目的や求めるものに応じて、楽しみ方を変えてみるのもいいでしょう。
読書に関しては、「知識」や「情報」に加えて、「思想」や「想像」「学び」など、どのような文章をどのような頻度で読むのかによって変わってきます。摂取する文章が、その人の思想や考え方を左右することも少なくありません。
純粋な楽しみの読書もあれば、知識を得るための読書もあり、あるいは問題解決や悩みの解消に読書を活用する人もいるでしょう。さらに、著者とのコミュニケーション(対話)を期待して読書をする人もいます。楽しみ方は千差万別です。
せっかくなら、誰かに決められたルールに基づいて食事・読書をするのではなく、自分なりの楽しみ方や取り組み方を模索して、より人生を実りあるものにするための活動にしたいものです。それだけで、人生はより魅力的なものとなるはずです。
■それぞれの相違点も理解しよう
このように、料理と執筆、食事と読書にはさまざまな共通点があります。ただし、似ているところがあれば、違うところもあります。最も大きな違いとしては、「生きていくために必要かどうか」という点ではないでしょうか。
少なくとも料理と食事は、生きていくために欠かせません。食材を購入するだけの行為も料理に含めて考えれば、料理をしなければ摂取するための食材を入手できず、食材ができなければ生きていくための栄養素が得られません。
そのため、私たちは誰もが料理と食事をしなければならず、それは生きていくために必須の行為と言えます。簡略化したり、できるだけ時間と労力をかけないこともできますが、いずれにしても必要不可欠の行為なのです。
一方で、執筆と読書は違います。執筆をほとんどしなくても生活できますし、読書をしなくても生きていけます。それらについて、人生のはじめから終わりまで、ほとんど無縁に過ごす人もいるでしょう。
つまり執筆と読書に関しては、個々人の「選択」によるところが大きいということです。短い文章はともかく、長い文章に関しては積極的に取り組む姿勢がないと、書くこともありません。同様に読書も、読むもうと思わなければ読まなくてもいいのです。
しかし、いやだからこそ、執筆・読書は重要な営みだと思います。執筆も読書も、避けて生きていくことはできる。ただ、それらを自分なりに捉え直し、良い面や楽しい部分に着目すれば、人生はより良いものになります。
どんな文章を書いても、どんな本を読んでもいいと思います。自分がいいと思う文章・読書のあり方を模索し、そこから一歩前に進んでみると、新たな世界がひらけてきます。それだけでも、すばらしいことだと言えるのではないでしょうか。
ゼロからなにかに取り組むのは大変ですが、これまで執筆・読書をしてこなかった人は、まず、自分が楽しめそうな執筆・読書について考えてみてはいかがでしょうか。そこに、自分や他人との、新たな出会いがあるはずです。
情報があふれている現代において、より良い文章を追求するのはむずかしいものの、自分なりの良いものであればすぐに見つかります。そこからさらに掘り下げて、執筆・読書の楽しみを深めていけば、得られるものは大きいと思います。
できれば、執筆・読書を、料理や食事と同じように習慣化してみてください。習慣にすれば、自然と執筆・読書が生活に馴染んできます。楽しみが増えれば、日々はより明るくなります。そこにこそ、執筆・読書の本質的な価値があると思うのです。
■まとめ
・執筆と料理、読書と食事は似ている。
・執筆も料理も、一定の流れに沿って行われる。
・読書も食事も、それぞれ得られるものがある。
・なくても生きていけるからこそ、執筆と読書を生活に取り入れたい。
まずは気楽に、とくに楽しい部分に着目して、執筆・読書を生活の中に取り入れていきましょう。