「テレビを見ない自慢」をたまに聞くことがあります。ボクも社会人になってからテレビを見なくなり、最初は「テレビに時間をとられない自分、カッコイイ!」と思っていました。
でも、よくよく考えてみると、テレビを見ない自慢は「寝てない自慢」と同じぐらい不毛なのではないかと気づいたんです。だって結局、その時間を他のゴラクにとられているわけですから。
「テレビを見ない」は選択させられている
そもそも「テレビを見ない」という選択は、テレビが各家庭に普及して、テレビがあることがアタリマエになっているからこそできることだと思います。テレビの黎明期には、逆にテレビがあることがステータスだったわけで。
たとえばインドでは、「アイロン・ミニコンポ・テレビ」が“三種の神器”とされているそうです。発展途上ということもあり、いまだテレビがゴラクの王者として君臨している。積極的に見られるわけです。
それが日本の場合、テレビはどの家庭にもある。たいてい無理なく買える。そこではじめて、「みんなが見ているなら自分は見ない」という選択が意味をもつわけです。テレビがまだ十分に普及していなければ、そんな選択はしないにも関わらず。
“アタリマエ”が生む不要論
テレビだけではありませんが、かつて物珍しかったもの、重宝されているものでも、アタリマエになると不要論が登場します。代替品となる(テレビにおける映画館など)業界が仕向けているのかもしれませんが、進んでマイノリティになろうとする人がいる。
その背景にあるには、「人と違った選択を進んですることで得られる優越感」ではないでしょうか。「時間のムダだから」「もっと有意義に過ごしたいから」が理由だと思うのなら、これまでテレビをみていた時間を何に使っているのか考えてみてください。
もしテレビをみていた時間でYouTubeをみているとしたら、それは時間の有効活用ではなくただの代替です。パソコンゲームでもスマホゲームでも同じ。映画鑑賞もそうです。それを能動的に選択していると、自信をもって言えますか?
遊ばれたくないなら遊びましょう
いずれにしても、テレビをみるみないは単純に選択の問題であって、自慢することでもなんでもありません。「テレビを見ない自分、カッコイイ!」は、環境が変われば「テレビを見ないなんて、遅れてる」となり兼ねないのです。
とくに日本人に多いと思うのですが、マジメ過ぎるのはある種の病気です。「成長しなければならない」「もっと成果をあげなければならない」などの向上心も、過度な場合はマイナスにしかはたらきません。
集中力はいつまでも続きませんし、疲れていればパフォーマンスも落ちます。自ら遊びを否定するのは自由ですが、その結果、「遊ばされている」というのでは本末転倒ですよね。バリバリ休む。積極的に遊ぶ。誰よりも成長主義にとらわれている自分に、そう言い聞かせたいと思います。
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