なぜ自分に合った仕事が大事なのか?−仕事が自分を律するということ−

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 「勤勉が大事」「努力をするべき」「真面目に働いた者だけが成功する」。とくに日本人はこのような精神論に基づく発想を好む傾向があるかと思います。ただ、世代によって環境やその前提が異なるため、その具体的な中身には差があるのではないでしょうか。

 たとえば、「何のために勤勉であるべきか」ということを考えたとき、「お金のため」「出世のため」「世のため人のため」「幸せのため」など、その先にある目指すもの(ゴールと言ってもいいですが)は、人や世代によって異なります。

 その異なるところにパーソナリティがあるとも考えられますが、いずれにしても、そこに向かうだけの強い動機がなければ、継続して勤勉になることも、努力することも、真面目に働くこともできないでしょう。実は、その前提が何よりも大事です。

 「◯◯のために勤勉になる」ということを深く考えることなしに、ひたすら頑張ったとしても、どこかの段階で「何で自分はこんなに頑張っているんだっけ?」と思ってしまうことがあります。最初は小さなその疑問も、やがて大きく膨れ上がっていきます。

 疑問とはつまり「迷い」と表現してもいいのですが、その迷いがあると、人は思うように行動することができません。これまで当然のごとくしてきたことが、スムーズにできなくなる。満足に成果をあげてきたことが、苦手意識やマイナス感情を伴うようになる。

 そうなると、もはや勤勉であることはできません。むしろ、「自分にはもっと合う仕事があるのではないか」とか「自分はここにいるべきではない」などと考えはじめ、それが逃避につながり、場合によっては手近な快楽などに向いてしまうこともあるでしょう。

■勤勉であり続けるために必要なこと

 では、私たちはどうすれば勤勉であり続けることができるのでしょうか。重要なのは、勤勉であるべき理由が明確であること。それこそ「◯◯のために勤勉でなる」という思いが強固であればあるほど、勤勉でい続けることは容易になります。

 それは「動機」と言っても「信念」と言ってもいいのですが、自分の中に腹落ちした想いがあることによって、誰に何を言われても勤勉であり続けることが可能となります。むしろ本人にとっては、勤勉であることが心地よく感じられることすらあるでしょう。

 勤勉がただの苦労であれば、苦労が好きでない限り、勤勉であり続けるのは辛いだけです。苦労をできるだけ少なくしたいと思うのが人間の本能であるとすれば、なぜ好きでない勤勉を続けていくことができるというのでしょうか。

 しかし現実には、それをしようとしている人が多い。むしろ、やりたくない勤勉を仕方なくするための方法論を模索して、「どうすればいいのか」「もっと適切な方法があるのではないか」と、右往左往しているわけです。私もそうですから、よく分かります。

 方法論というのは、たしかに自分を楽にすることがあります。ちょっと姿勢を正すだけで、呼吸が楽になったり疲れにくくなったりするのと同じです。適切な方法を採用することによって、勤勉に伴う苦労が緩和されるのは事実です。

 ただ、その背後にある動機や信念がなければ、いずれその楽になった状態から新たな不満や不安が生じてきて、「もっといいものはないか」と考えてしまう。それもそのはずで、私たちは時間とともに年齢を重ねていきます。当然、衰えていくのです。

■自分に合った仕事とは何か?

 衰えていく自分と付き合っていくうえで、いつまでも方法論にすがることはできません。自分の年齢に合った方法論を探し続けるのもいいですが、ごまかせる体力や気力には限界があり、それはすなわち人生をごまかし続けることにもなってしまいます。

 根底にある「何のため」を表面的に無視することはできても、募っていく想いを解消させることはできず、また思考の対象を変えたり視点を反らしたりすることはできても、蓄積されていく何か目に見えないものは、いつまでもあなたを捉えつづけます。

 そのときになって思うのが、「自分に合った仕事とは何か」ということではないでしょうか。自分に合った仕事、つまり天職を模索していけば、その先に「何のため」の答えがあるような気がする。それは、迷いの先にある自然な発想です。

 方法論のようなものではなく、自分の内側にある思いに根ざした「何か」を見つけることができれば、勤勉さを肯定できるような、努力を良きものとして捉えられるような、そんなヒントのようなものがあるような気がしてきます。

 そこから、自分に合った仕事の模索がはじまるわけです。それはすなわち、仕事や活動をするための「動機」や「信念」の元になるものなのですが、見方を変えると「自分は何のために生れてきたのか」の答えを探す旅にもつながります。

■本当の天職はその人を律してくれる

 運がいいことに、自分にとって本当の天職というものが見つかったとしましょう。そのとき人は、その対象に向かっている自分自身を誇らしく思うとともに、残りの人生を考えながら、可能な限りその対象に向かっていたいと思うはずです。

 そこには、かつて方法論や他人の信念にすがっていた自分とは違う、本当の自分がいます。本当の自分は、周囲の耳目に惑わされることなく、踊らされることなく、目の前の対象に正直に、真摯に向き合っています。それが何よりも尊いことだと思うためです。

 そのような人の姿は、ときに他人にとって「狂気である」「異常である」と映るものですが、それもそのはずで、その対象に向かっている自分の尊さは本人にしかわかりません。天職は千差万別であり、それが天職である理由は必ずしも論理ではないためです。

 論理ではなく、また感情だけでもなく、感覚や雰囲気やそれこそ魂の領域にまで関連してくるような、半ば思い込みのようなもの。その思い込みがかたちを変えて信念になっているとすれば、他人の評価など何ら問題とならないわけです。

 そこからさらに進んでいくと、今度は、これまで行ってきた自分の行動や習慣、その他あらゆる“無駄”が邪魔で邪魔で仕方なくなります。自分が本当にやるべきことを理解しているため、時間と労力の無駄が許しがたくなってくるのです。

 そうすると人は、その無駄を極力、排除しようと努めます。惰眠を貪ったり、不摂生をしたり、時間を浪費したり、安易な快楽に溺れたりなど、自分の時間と労力を奪っていくあらゆるものを忌避しようとするのです。

 そのような行動は、他人から見ると修行僧のように見えるかもしれません。あるいは、「なんてストイックな人なのだろう」と思われることもあるでしょう。しかし当人からすれば、なんてことはなく、ただ自分のやりたいようにしているだけです。

 本当の天職が見つかっているからこそ、それを邪魔するあらゆるものを排除し、日々の暮らしを洗練させているだけ。規律ある生活も、すべては自分がやるべきことのためにあり、そのための時間・労力の節約に過ぎないのです。

■自分に合った仕事が何よりも大切な理由

 以上のことからわかるのは、自分に合った仕事、それも天職といえるような仕事を見つけることの大切さです。自分に合った仕事を見つけ、そこに人生のすべてをかけられると思えたのなら、その人はあらゆる側面から成長していきます。

 もちろん、その先にあるゴールは天職から生まれるわけですが、成果物というより、日々、天職に携わっていること自体が尊いため、周囲の評価や評判、対価としての金、名声、富の蓄積など、いずれも取るに足りません。

 そのような状態になってはじめて、「やるか・やらないか」などと考えることなく、「いつやるか」「どう続けていくか」というところに焦点をあてられるようになり、結果的に、人間として無駄のない生き方ができるようになるのです。

 その場合の無駄には、「必要な無駄」を含んでおらず、すなわちやるべき寄り道を経ながら天職のためのあらゆる行動をしつつ、生きていく。誰もが抱えている死という終わりに向かって、ただ邁進し続ける。それが、自分に合った仕事のもたらす価値だと思います。

■まとめ

・勤勉であり続けるには理由が必要。

・「天職」が見つかれば努力が努力でなくなる。

・動機や信念があれば方法論はいらない。

・天職が自らの日常を律してくれる。

 人によっていつ天職が見つかるのかはさまざまですが、見つけるまで模索し、見つけてからは没頭し続けましょう!

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