クリエイターはなぜ「うまさ」と「魅せる」の違いを認識するべきなのか

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ある古い音楽を聴いていたとき、ふと、「うまい」「魅せる」の違いについて考えてしまいました。それは、ボクたちライターの世界でも言えることでしょうし、デザイナーでもそう。いや、あらゆるクリエイター業に携わる人にとって、重要な区分だと思います。


「うまい」とはなにか?

そもそも「うまい」とはなんでしょうか。うまいとはつまり、上手、ということです。うまい文章とは、上手な文章。うまいイラストとは、上手なイラスト。具体的には、「より本物に近い」ということです。

おそらく、クリエイターでない人(ボクらの顧客はほとんどこちらに属していますが)が判断できるのは、いわゆる「うまい」かどうか、でしょう。模写てきないという意味での「本物に近いかどうか」によって、上手か下手かを判断しています。

「魅せる」とはなにか?

一方で「魅せる」とはなにか。魅せるとは、うまいかどうか、上手かどうかはあまり関係なく、それよりもつい惹きこまれてしまう魅力がある、ということです。魅せる文章、魅せるデザインとは、つい読んで、見て、しまうだけの何かがある。

そしてこの「魅せる」を、客観的に判断できる人は少ないと思います。「この文章はあまりうまくないけど、魅せる文章だね。なぜなら……」と、説明できる人は、あるいはしようとする人は、少ないのではないでしょうか。「なんとなく好き。魅了される」というのがほとんどです。

両者の違いがもたらすもの

では、両者の違いは何をもたらすのでしょうか。それは、クリエイターと顧客(ユーザー)との齟齬です。

ボクたちクリエイターは、「うまい」ではなく「魅せる」を目指しています。なぜなら、すでに、うまいは卒業しているから。模範的な文章、写真のような絵。そのような段階を通り越して、独自性を発揮したいと思っている。

しかし一方で、クライアントが欲しがっているものはなにか。それは「うまい」文章であり、「うまい」デザインなのです。あとからウンチクによって説得することはできたとしても、いきなり「魅せる」なにかを提示したところで、大抵の場合、理解されることはありません

クリエイターは「うまい」べきか「魅せる」べきか

クリエイターのジレンマはここにあります。自分が書きたい「魅せる」ものと、顧客が望んでいる「うまい」ものとに齟齬があるため、両者のあいだで葛藤することになる。とくに、アーティスティックなプロフェッショナルほどそうでしょう。

そこにきて、ボクのようなどちらかというとビジネス思考の人間は、わりとすんなり、「魅せる」をあきらめることができます。悪く言えばこだわりがない。だから文章の質そのものよりも、「うまい」、あるいはうまく見せるために、柔軟に対応できる。

目的を履き違えて、期待を裏切らないこと

「あの人は◯◯さんより文章がうまいか」「あの人は◯◯章を獲得した◯◯さんよりも優れた能力をもっているか」。こういった議論がいかに不毛か。それは、クリエイターが感じている「うまさ」と「魅せる」のジレンマと同様。つまり、目的を履き違えているだけなのです。

趣味として、どうしても好きになりたいものを探しているのなら、「魅せる」なにかを探せばいい。そうではなく、公で必要な一定レベルのものがほしいなら、「うまい」を探せばいい。「あの人のピアノは、あの人のピアノよりうまいのかな」なんて、ナンセンスですよね。

また、クリエイター側としては、アートなこだわりは自分のテリトリーの範囲内で発揮すればいい。しかし、経済に寄り添う場面では、より「うまい」、あるいはうまく見せる、を追求するべきではないでしょうか。それがサービス精神というものですし、ボクたちがしているのは、やはり、サービス業なのですから。

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