新しいアイデアがどんどん湧いてくる方法|『自分のアタマで考えよう』

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 日本人だけでも、自分のアタマで物事を考えられていない人は相当数いるでしょう。僕も似たようなものです。ただ、ちきりんさんには「「自分のアタマで考える」とはどういうことか、についてもっと考えてみては?」 と言いたくなりました。

『自分のアタマで考えよう』

 ちなみに僕が崇拝しているライフネット生命の出口さんも、本書をコチラでオススメしています。


「自分のアタマで考える」とは

 「自分のアタマで考える」とはどういうことでしょうか? 率直に考えれば、無人島のような場所で何の情報も得ずにひとりで出した結論こそ、純粋に自分のアタマで考えたものと言えそうです。

 でも、それではあまりに現実味がない。日本で普通に暮らしている人たちが議論する話題ではありませんね。なので、おそらく本書では「既存の情報をうのみにしないで自ら結論を出すこと」のように定義しているかと思います。

 つまり本書のテーマは、「受動的な情報収集をやめよう」ということ。ちょっとしたメディア批判とでも言えるでしょうか。ただ、古典を読むことを否定している(擁護はしていますが)ので、矛盾が生じてしまっています。そのあたりの詳細は最後のまとめに記載しました。

・知識と思考の違いを意識する

「詳しくなればなるほど、その分野での新しいアイデアに否定的になる」傾向が見られたら、「知識が思考を邪魔している」ことを疑ってみた方がよいでしょう。(ちきりん,2011:19)

 知識と思考をわけて考えるべきということですね。本当に自分で考えたこと(思考・未来)か? それとも誰かの受け売り(知識・過去)か? ことあるごとに自分や相手に問い掛けてみると効果的かもしれません。ゼロベースで考える際に、知識が障壁(バイアス)になってしまっているということです。

・インプットとアウトプット

「考えること」「思考」とは、インプットである情報をアウトプットである結論に変換するプロセスを指します。[……]「考える力をつけたい!」と言いながら、本ばかりを読んで情報収集に時間を使っていても、考える力はつきません。自転車に乗れるようになりたいなら、自転車についての本を読むのではなく、実際に自転車に乗る時間を増やすのがもっとも有効です。(ちきりん,2011:34ff.)

 本をただの情報ツールとしてとらえていれば、このような結論に至るのも仕方ないでしょう。しかし、本は「ある問いに対する著者の思考プロセスを活字でつづったもの」にほかなりません。自分の思考と著者の思考とを矛盾させずに新しい発想を生みだすことは、まさに自分のアタマで考えることでしょう

 また、何も知らずに自転車に乗るのと、コツを学んでから乗るのとではどちらが上達が早いでしょうか? イノベーションのもととなる思考、世界一の自転車乗りになるための発想、その土台には「自転車についての本」があります。医学の進歩も科学の進歩も、そしてオリンピックの記録更新も、自然な人間の進化によってもたらされたわけではないのです。

・「なぜ?」「だからなんなの?」+「本当に?」

データを見たときには、その背景(=データの前段階)を考える「なぜ?」と、そのデータをどう解釈し、対応すべきか、と一歩先(=データの後段階)を考える「だからなんなの?」のふたつの問いを常に頭に浮かべましょう。(ちきりん,2011:43)

 仕入れた情報に対して「本当に?」と疑うことで、さらに知識を掘り下げることができます。

 そもそも、世の中にあふれるデータ自体、その真偽はあやしいものです。少子化や自殺率などはどうでもいいことですが(これらは本当に、私たち個々人が考えるべき「問い」でしょうか?)、もし「大手銀行が利用者全員貯金を毎年10銭単位で没収している」というデータがあったら、あなたは自ら調べようと思いませんか? なぜなら、それが「自分に関係する問題」だからです。

 暇つぶしで政治や経済の問題に取り組むのは結構ですが、そこには本心から湧き出る「なぜ?」や「だからなんなの?」はありませんだから「本当に?」という視点を見失う。情報をうのみにしないのであれば、既存のデータに対して「歴史」や「諸外国」のデータから、おおよその推測ができるはずではありますが。

まとめ

「古典」とか「歴史的な名著」といわれる本の中には、「人生の答え」「世の中の事象に関する回答」が書いてあります。[……]ちきりんは「古典を読むな」と言っているわけではありません。本来は、「書物や授業を通して先人のすばらしき思考の功績を知識として学び、さらにその上に自分の頭で考える」のが理想です。(ちきりん,2011:241)

 万有引力を発見したアイザック・ニュートンは、イギリスの自然科学者であるロバート・フックに宛てた手紙で次のように書いています。

私がより遠くまで見渡せたとすれば、それは巨人の肩の上に乗ることによってです。

 もともとはフランスの哲学者であるシャルトルのベルナールの言葉とされています。僕のもっとも好きな言葉のひとつであり、僕が古典を読み続ける理由でもあります。

 もちろんニュートンやベルナールが、実際に巨人の肩の上に乗っていたわけではありません。この言葉はいわゆるメタファー(隠喩)で、その意味は「私たちは偉大な先人の考えを認め、ときに否定し、学ぶことでさらに先へ進むことができる。だがそれは、必ずしも私たちが彼らよりも優れているということではない」というものです。

 なるほど自分のアタマで考えるのは大切です。それを疑うことはしません。しかし、先達がつくった大海へと通ずる道を自らふさぎ、井の中でウンウンうなって見つけた「自分のアタマで考えたこと」は、果たして本当に価値のあるものなのでしょうか? 僕はそうは思いません。

なぜなら、偉大な先人たちがつくってくれた過去の道、その道を未来につなぐことが、現代に生きる私たちのすべきことだと考えるからです。そのための読書は、情報収集のツールではなく、“著者との対話”を可能にする文明の利器なのです。

 だから僕は、これからも古典を読み続けます。

自分のアタマで考えよう

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