同じテーマで話していても、あるいは同一の主題を論じている文章でも、意味がつうじにくい場合があります。そのとき、考えなければならないのは、「言葉の定義」についてです。
もし、言葉の定義が明確になされていなければ、会話のなかで、あるいは文中で、受け手が誤解してしまう可能性があります。なぜなら、同じ言葉でも違う意味で理解してしまうから。
だからこそ、論理的な文章を書く場合には、言葉の定義が欠かせません。話す際にも同様です。そこで今回は、言葉を定義することの意義について考えていきましょう。
なぜあらかじめ「言葉の定義」をするのか
そもそも、なぜあらかじめ言葉の定義をしなければならないのでしょうか。冒頭でご説明したとおり、その理由は「受け手の誤解を防ぐため」と言えます。
たとえば「生活」という言葉。この言葉のただしい意味は、「生体として活動すること」ですが、なかには「日々の暮らしのこと」と考えるひともいるでしょう。
そのように、ひとによって理解が異なると考えられる単語は、あらかじめ定義することが必要となります。「生体としての活動」と「日々の暮らし」では、理解が大きく異なります。
カッコつきの単語について
論文などにありがちなのが、カッコつきの単語です。たとえば、「生活のなかに喜びを求めることは大切だが、健康な肉体あってこその『生活』である」という文章の場合。
最初の生活と、後の『生活』という言葉は、違う意味で使われていることがわかります。前者は「日々の暮らしのこと」、後者は「生体として活動すること」という意味ですね。
このように、あえて意味をわけて言葉を使うのも、論理的な文章を書く際のテクニックとなりますが、読み手によっては意味が伝わりにくい場合もあるので、注意が必要です。
「狭義」と「広義」の誤解
言葉の定義をしていない場合、同じ言葉でも「狭義」と「広義」によって、誤解が生じる場合があります。狭義とは狭い意味、広義とは広い意味ということです。
先ほどの「生活」という言葉で言えば、狭義の意味では「日々の暮らし」、広義の意味では「生体としての活動全般」となります。言葉の範囲が違えば、意味も異なるのです。
狭義も広義も、どちらの意味でも活用したいと思うのなら、「狭義の意味での◯◯」「広義の意味での◯◯」など、文中でしっかりと明記することが大切です。
まとめ
言葉の定義をあきらかにしていないと、議論がいつまで経っても平行線をたどるだけで、かみ合わないという事態になり兼ねません。誤解のある状態での議論は不毛でしかないのです。
ちょっとひと手間かけて、あらかじめ言葉を定義しておくこと。それだけで、会話や文章の論理性は高まります。論理性が高まることで、説得力が上がり、理解も深まります。
とくに論理的な文章を書く際には、あらかじめ言葉の定義をしておくこと。誤読がないように、複数の意味にとれないかチェックしてみること。それが重要なのです。