“新聞の終焉”が現実味を帯びている。
少し前にこんな事件があった。読売新聞の記者を名乗る人間から、僕に取材依頼のメールがとどいた。僕は快く応じた。大手メディアからの取材だ。
ただ、依頼の内容がイマイチ不明で、そもそも「なぜ僕が?」という疑問はぬぐえなかった。ブログから飛んできたとのことだが、さて、といった感じだ。ただ、興味もあったので行ってみることにした。
記者、遅れて登場。女性、年の頃は40ぐらいだろうか。私服、手元にはボイスレコーダーと小さなメモ帳のみ。はて、これで取材を? 少なくとも、僕が普段行っているようなビジネステイクの取材では、これではやっていけない。そして、話し始めると数分もしないうちに足を組みだす。これが読売新聞の取材とは。正直なところ目を疑った。マナーもなっていないのに、どこに行き、誰に会い、どんな情報を得られるというのか。
極めつけは、断っているのにも関わらず、守秘義務がある情報を提供しろとのこと。これが大手新聞社記者のやることかね。ガッカリどころではなく、あきれた。こんな人材がいる会社が、どうして生き残ることができるだろう。新聞うんぬんではなく、少なくとも読売新聞、オワコンですよ。
別の場所で日経新聞の記者にもお会いしたことがある。打って変わって、ビジネスマナーも対応も、そして人としての覇気もバツグンだった。既存の新聞、メディアとは一線を画している日経新聞だからこその人材なのだろう。さて、その他の新聞はどうだろうか。
いくらインターネットの普及を否定しようと思っても、それは到底ムリ。できっこない。いくら見えないふりをしていても、障害物は消えることはない。それなのに、いつまで上から目線を続けるのだろう、新聞社よ。インフラか、そうか。それなら、公営としてやるといい。少なくとも、厳しい消費者の目が降り注ぐ営利企業の商品として、生き残れるはずがない。
少なくとも、僕は二度と、読売新聞を手に取ることはないだろう。
ちなみに、上記の記事に対する堀さんのコメントが秀逸だってので掲載させていただく。
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