文章を書くときに、「何を書けばいいのか」「どのように書けばいいのか」と悩んでしまう人は多いかと思います。そこには、文章が他人とのコミュニケーション・ツールであるという前提と、そのために必要なエッセンスへの考慮が不足しているのかもしれません。
どういうことかと言うと、「誰かに何かを伝えるための文章」という意識があれば、「誰」という対象から書くべき文章の中身(文体、構成、内容、用語など)が自ずと見えてきますし、「何」を考えれば文章の方向性は自然と決まってきます。
つまり、伝えるべき「相手」があり、その相手に伝える「事柄」があることが、コミュニケーションとしての文章のベースです。そのような認識に立ち、あらためて「何を書けばいいのか」「どのように書けばいいのか」と考えてみることが大切です。
ただし、伝えるべき相手としての「誰」が明確であり、その相手に対して「何」を伝えるべきかがわかっていたとしても、その内容に伴う知識や知見、経験、それらを含む情報をもっていなければ、文章を書くことはできません。
調べながら何かを書くことはもちろん可能ですが、少なくとも、文章の土台となる基礎知識や最低限の知見・経験・情報を有していなければ、書かれる文章は表面的で中身(層)の薄いものとなってしまうでしょう。
そのときに重要なのが、文章を書くための、土台としての「学び」です。この場合の学びとは、学業や試験勉強とは異なり、あくまでも書くための学びとなります。要するに、書くべきことを書くために、必要な知識・情報・経験等を得ることが、ここでの学びです。
もともと学びには、明確な目的がある学び(試験勉強など)と、とくに目的を定めていない学び(趣味や興味関心など)があります。前者は一定のゴールがある学びであり、後者は言わば学びのための学びと表現できるかと思います。
とくに文章を書くための学びとは、後者ではなく、前者のように明確な目的があります。そして、「誰」と「何」が明らかになっていれば、書くべき文章もある程度はイメージできるため、何を学べばいいのかもわかることでしょう。
このように文章と学びは、目的や方向性を伴いながら、密接に関連している活動と言えます。その点において、これから何かを書こうと考えている人は、「書くこと」を前提とした学びの意識をもつことが大事だと思います。
■書くことと学ぶこと
何かを書くためには、その前提となる情報や思考がなければなりません。何ら情報がなく、また思考することがなければ、書かれた文章には意味がなく、それを読む人にとっても何ら得られるものがなくなってしまいます。
そのような状況を避けるには、書くことの前段階として、一定の学びが必要となります。それは単に情報を仕入れるということでもいいのですが、それだけでなく、得られた情報を自分の中で血肉化し、自分事にしつつ、自らの言葉に変えていくことが大切です。
得られた情報をそのまま文章で伝えるだけでは、「情報の横流し」になってしまいます。情報そのものに価値があればそれでもいいのですが、その文章は必ずしもその当人が書く必要はなく、場合によっては機械が書いても同じこととなるでしょう。
そうではなく、自分が自分の文章を書くということは、自らが得た学びを消化し、消化した中で浮かび上がってきた思考を文章にすること。そして、できるだけ伝わるように書き上げていく努力をすることが含まれます。
その場合の「学び」には、文章を書く前段階としての情報収集や血肉化を含む学び(「事前の学び」)と、書かれたものをより伝わるようにするための構成や推敲などの学び(「事後の学び」)の両方が必要となるでしょう。
その点において、書くことと学ぶことは、密接に関連している事項であるのは間違いありません。文章を書くという、一見するとシンプルな営みも、その周縁にある学びがあってこそ、さらにより良いものとなるのです。
■書きながら考えることの是非について
「たとえ事前・事後の学びがなくても、書きながら考えればいいのではないか」。そのように考える人もいるかと思います。たしかに、事前・事後に学びがなかったとしても、考えながら書けるのであれば、伝わる文章は書けるかもしれません。
ただ、個々人に付随する「文章力」という観点から考えると、事前・事後の学びがないことによって、文章力は鍛えられることなく、あるいは鍛えられる範囲や質・量が限定されてしまい、次の文章へと生かされない可能性があります。
どうせ書くのなら、書くことによって次の文章がもっと良くなるようにしたい。そのように考えるのは、人として、少なくとも向上心のある人間として、当然のことではないでしょうか。学びと向上心は、非常に相性がいいのです。
なるほど、事前・事後の学びがなくても文章は書けるかもしれません。そしてそこから生み出された文章が、誰かに伝わるということもあるでしょう。しかし、何らの成長をも伴わない自分の文章を目の当たりにし、いつまでも何かを書くことはできるのでしょうか。
努力とそこから生み出される成長は、時間軸の流れとともに、自然と向上していきます。誰にとっても時間は平等でありながら、その時間を使って何をしたのかによって、その後の成長度合いは大きく変わってきます。
そう考えると、ただ文章を書いていただけの人と、学びながら書いていた人の間には、時間の経過とともに大きな成長の差が生じるとわかります。せっかく文章を書くのですから、できれば日々、成長を続けたいものです。
そしてそのための最も効率のいい方法が、書く前と後に学びを付加するということです。学びながら書くと言ってもいいのですが、そうすることで、書くことと学びが同化し、インプットとアウトプットが習慣化されていきます。
もともと学びには、知識や情報を仕入れるインプットと、学んだことを外に出すアウトプットがあります。勉強好きな人ほどインプットに時間と労力を傾けてしまいがちですが、そこに書くというアウトプットを入れると、定着度はより高まるはずです。
もちろん、書くことからはじめた人も、そこに学びを取り入れることによって、文章の質も思考のレベルも高まっていくことが期待されます。このようにして書くことと学ぶことは、相乗効果を伴いながら時間とともに進んでいくのです。
■学んだことを発酵させて文章にする
書かれたものは、加筆修正をしなければそのまま変わりません。しかし、学んだことについては、その後の人生経験を経ることによって変質し、頭の中でかたちを変えていきます。そしてその変化は、次に書く文章にも表れています。
それはすなわち「学びの発酵」と表現できるかと思いますが、発酵された学びは、以前とは異なる思考へと結びつき、文章の奥深さを得られる糧になります。表面的な学びから、より深い学びへと深化すると表現してもいいでしょう。
そこに、学びのおもしろさがあります。同じことを聞いても、そこから生み出される感想が異なっているように、同じ学びを得ても、人によってどのように深化するのかは異なります。深化する学びは、興味関心の変節にもつながっていくでしょう。
思えば人生というものは、そのようにして広がっていくのかもしれません。学びがなければ、また学びが深化していかなければ、興味関心の対象はそれほど広がっていかないかもしれません。それでは、人生がより実り多きものになりません。
やはり、自分がふれたもの、聞いたもの、学んだものが経験の中で変わっていき、アウトプットを経てかたちになっていくことが、内面を磨くことにつながると思います。そのようにして、インプットの質もアウトプットの質も高まっていくのです。
どちらに傾いても総合的なスキルの醸成にはならないかと思います。その点において、学びながら書く習慣を身につけていれば、日々の中でともに磨きがかかってきます。学ぶことと書くことは、ともに人を成長させる相互作用があるのです。
■まとめ
・書くためには学ぶことが大事。
・事前・事後の学びが書くスキルを高める。
・書くことと学ぶことには相乗効果がある。
・書きながら学ぶ習慣が内面を磨いていく。
書くために学ぶことと、学ぶために書くこと。その両者を意識しながら、文章を書いていきましょう。