「感傷の鬼」(2015年をふり返って)

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なつかしい音楽を聞いたり、かつて親しんだ場所を訪れたりすると、忘れていた(と思っていた)記憶がよみがえることがある。

とくに、心の琴線にふれるかのような、少しセンチメンタルな心情にさせられると、まるで自分が感傷の鬼にでもなったかのような錯覚をうけてしまう。その瞬間だけは、昔の自分に戻ったかのように思える。

時間の経過に比例することなく(あるいは規定のカリキュラムを越えて)自分を変えていこうと日々をすごしていると、立ち止まったときに、まるでワープしたような感覚になる。「ずいぶん遠くにきてしまったな」と、少し、あぜんとしてしまうのだ。

「なにが自分をそうさせて」「どんな巡り合わせで」。そういったことは、一切、関係ない。というより、問題にならないのだ。現状を打破しなければとまい進して、結果的に遠くにきた。理由などどうでもいい。

ただ、置いてきてしまったもの、去っていったもの、永遠に失われてしまったであろうもの。そうしたものが、この瞬間だけ過去の自分に戻ってみたとき、空白感となって伝わってくる。「あれ、ここにあったものはどこにいったんだっけ」、と。

右腕を失った兵士が、夜中に、右腕のうずきで目覚めてしまう。そこにはもう、右腕はないのだが、“あったはずの空白感”がうずきを感じさせる。感情、心情、感覚、想い、痛みとか喜びとかも、きっと同じなのではないだろうか。

「もうここには無いんだな」。いくら自分に言い聞かせても、論理的に納得できるだけ。焼き付いている記憶が、くり返し、空白感を呼び起こさせることに変わりはない。それは音楽や風景、匂い、感触、味覚など、五感にひもづいている記憶がある以上、何度でもやってくるのだ。

忘れてしまった感情、あるいは、忘れようとした記憶。ガムテープでぐるぐる巻きにして、厳重に封をしたタイムカプセルは、もう地中深く埋めてしまったのに。それでも、何度でも何度でも、当時の自分に戻って、空白感を味わえる。“あったはず”は消えないのだ。

人は、いつでも、感傷の鬼になれる。そのために必要なのは、五感にひもづいた記憶の糸をたぐることだけである。

2015年12月31日 千葉の事務所にて
山中勇樹

 

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