読むと自由になる! 「文章心得帖」にみる“良い文章”とは

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文章心得帖 (ちくま学芸文庫)

文章心得帖 (ちくま学芸文庫)

良い文章とはなんでしょうか?

その答えのない問いに耐えられる者だけが、良い文章を書けるのだと信じるしかないでしょう。次の鶴見さんの言葉にある通り、文章の馬鹿になって追求し続ける気概が求められます。

自分はいかなる馬鹿であるか、

自分はいかなる馬鹿になるか、

いかなる馬鹿として自分を見るかが、

多様な人生観のわかれめとなる。(鶴見,2013:197)


・紋切型の言葉をつきくずす

文章を書く上で大事なことは、まず、余計なことをいわない、ということ。次に、紋切型の言葉をつきくずすことだと思う。(鶴見,2013:15)

ここで鶴見さんが主張しているのは、「余計なことをいわないこと」「紋切型の言葉をつかわないこと」の2点です。つまり、「必要な言葉」と「自分の言葉」だけで文章を書くべき、ということですね。これは単純に考えても相当難しい。なぜなら世の中には余計な言葉と使い古された言葉があふれているからです。それらを無意識に使ってしまうのは、ある意味で仕方ないようにも思える。適切な処方箋としては、文章を書くときには必ずこの2点を意識すること、そしてあとから無駄な言葉や紋切型の言葉を削ること。それしかないでしょう。

・理想的な文章の三つの条件

第一は誠実さ:他人の声をもってしゃべるんじゃなくて、自分の肉声で普通にしゃべるように文章を書くこと(鶴見,2013:18)

第二は明晰さ:はっきりしているということ。そこで使われている言葉を、それはどういう意味か、と問われたら、すぐに説明できるということ(鶴見,2013:20)

第三はわかりやすさ:特定の読者にたいしてわかりやすい。自分にとってわかりやすいということでもいい(鶴見,2013:22)

誠実で、明晰で、わかりやすい。それが文章の理想だと鶴見さんは言います。とかく言葉は相手に伝わってこそ価値があるもの。どんなに素晴らしい意見でも、どんなに革新的な理論を打ち立てても、誰にも理解されなければ意味がありません。文章が下手な人ほど、難しい言葉を選んで使う傾向にあると思いますが、自ら伝わりにくい言葉を選ぶということは、つまり思いやりがないのです。相手がたとえ小学生だったとしても伝わるような文章を書く。まずはそこからスタートしたいですね。

・文章をまとめてゆく三段階

(1)思いつき(2)裏づけ(3)うったえ

実ははじめに自分が内部に思いつくということは、自分のなかに社会が入ってくるということなんです。[……]言葉をもつということは、外側の社会がわれわれのなかに入りこんできたことで、内面化された会話です。他人とのやりとりが内面化されて、自分一人でそれをもういっぺん演じている。ですから、思いつきそのもののなかに、すでに社会というものがある。

こういう図式で考えてみると、文章を書くことは他人に対して自分が何かを言うという、ここで始まるものではない。実は自分自身が何事かを思いつき、考える、その支えになるものが文章であって、文章が自分の考え方をつくる。自分の考え方を可能にする。だから、自分にはずみをつけてよく考えさせる文章を書くとすれば、それがいい文章です。

自分の文章は、自分の思いつきを可能にする。それは自分の文章でなくても、人の書いた文章でも、それを読んでいると思いつき、はずみがついてくるというのはいい文章でしょう。自分の思いつきのもとになる、それが文章の役割だと思います。(鶴見,2013:25f.)

本書のなかで僕が一番感銘を受けたのが、この部分です。考えにはずみがつく文章こそが良い文章。まさにその通りだと思います。文章は書いて終わりではありません。書きっぱなしの文章など自己満足でしかない。しかし、自分が書いた文書を読んで、あるいはそれは未来の自分でもいいのですが、それが考えるきっかけとなる。そのような文章が僕たちの思想をより高みへと運んでくれるのではないでしょうか。

・あがきを伝える文章

究極的にいい文章というのは、重大な問題を抱えてあがいているというか、そのあがきをよく伝えているのが、いい文章なのではないかと思います。きれいに割り切れているというものは、かならずしもいい文章ではないのです。(鶴見,2013:70)

きれいにまとまっているように見えて、その実、なんの実りもない文章があります。そこにあるのはただの文字だけ。あたかも結論が出てしまったかのように書いた文章は、得てしてそのようになりがちです。世の中には究極的な答えはありません。それは文章のか書き方についても言えることです。だから努力を続ける、模索し続ける。そうやってあがいていくなかで、今現在の思いを文章にしてみる。そこにある割り切れなさは、きっと読者にも伝わることでしょう。

・原体験は言わない

原体験を言わないことで、自分が経験するほかのあらゆる体験にかぶさって、それを解釈し、色づけるもとになる。もとの体験、たとえば自分にとっていちばんいやだった体験は、一種の絵の具みたいになって、いま見ていることを色づけしています。(鶴見,2013:76)

あなたはなぜ文章を書くのでしょうか。宿題だから、仕事だから、趣味だから。理由はなんでもいいのです。最終的にどこに到達するかと言えば、それはきっと「自分なりの問い」なのでしょう。他人にとってはどうでもよいと思われそうなことも、こと当人にとっては重大そのもの。それが自分なりの問いです。その背景には、必ず「原体験」があります。原体験という絵の具を使って、自分なりの問いに対する答えを書いていく。それが人生の営みではないでしょうか。

・肉声を伝える誠実さ

文章を書くときに、まず思いつきという段階がある。思いつきというのは自分の肉体とか経歴からあらわれてくるもので、そこで文章のもつべき特質として誠実さが挙げられるのです。やはり自分の肉声が伝わらなくてはいけない。(鶴見,2013:98)

まるで誰かが用意したかのような原稿を、ただ読み上げるだけの文章に、心を動かされる人はいません。人を動かすのは、その人の内面から発せられる魂の叫び、つまりは肉声です。ウソをつかない、飾らない。それだけでも文章の質はグッと高まることでしょう。門切り型の言い回しも自然と避けられるようになる。話すように書くとはそういうことです。会話のようにスッと入ってくる文章を書く努力をしましょう。

・文章のひずみ

むしろ思うままに欠落をつくって、誰もが書くものを書かないことによって、新しい自分の方法を示し、書かなかった部分を批判したのです。(鶴見,2013:152)

動いていくボールは、まん丸ではなくて、ある種のひずみをもっている。評論は、自分がある方向にむかって駆け抜けていくということですから、明らかにひずみがあっていい。こういうことは書く、こういうことは書かないという、そういうものであったほうがいい。(鶴見,2013:179)

すべての情報を落とさずに、時系列に物事を記述していく。それはただのニュース記事、あるいは年表と同じです。面白みがまったくない。事実を伝えるだけなのですから、主張もない。あってもほとんど消えかかっているために、読者に伝わることはありません。鶴見さんはそれではいけないと言います。文章には書くことと書かないことがあっていいひずみがあっていびつでもいい。読者が違和感を抱いてくれさえすれば、それでひとつの目標を達成したことになるのですから。

・適度の簡潔さ

適度の簡潔さというのがわれわれの基準になるだろう。適度の簡潔さというのは、沈黙と見合う文章、暮らしに溶けていく文章、この二つの理想の前に立つものです。(鶴見,2013:202)

ポイントは“適度の”簡潔さ。何も言わずに沈黙する文章があるかと思えば、疑って疑ってさらに疑って書いた文章もある。どちらも文章に対する姿勢としては間違っていません。懸命に対峙した結果が沈黙だったのか、あるいは疑いだったのかの違いでしかない。また、かといって普段の暮らしから遠ざかりすぎてもいけない。雑踏の中にいながらなんとか書き上げたかのように、ノイズが入ってても良いのです。沈黙に見合う、暮らしの中の文章。それもまた、理想的な文章と言えるでしょう。

まとめ

  • 紋切型の言葉をつかわない
  • 文章であがきを伝える
  • 原体験は直接いわない
  • 自分の肉声で伝える
  • 適度に簡潔に

文章心得帖 (ちくま学芸文庫)

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