世の中、なにが良くてなにが悪いかなんて、そう簡単には分からない。むしろ、最後まで(あるいは死ぬまで)分からないということも少なくない。一見して、正しいと思っていた判断が、結果的に悪かってたり、また反対に、悪いと思った判断が、最終的には良かったりもする。
そして、良いことのあとには不幸が、悪いことのあとには幸福があったりする。結局のところ、なにがあっても一喜一憂するのは単なる時間のムダでしか無いのだ。死ぬまで判断できない。そんなこと、考えたって仕方がないじゃないか。
ただ、できることなら、悪いこと、嫌なこと、あるいは辛いことや苦しいことは、誰しも経験したくないと思う。ぼくだってい嫌だ。可能であれば、無菌状態で過ごしたいとすら夢想しなくもない。しかし、それがそもそもの間違いというのだ。「なるほど、たしかに悪いことは誰だって嫌だよな」なんて考えている人がいれば、それは明らかに、勘違いをしている。なぜなら、悪いことかどうかなんて、そう簡単には判断できないからだ。これは、すでにさきほど述べたことである。2秒すれば忘れるのだから、いやはや人間というのはやっかいだ。
たとえば、ぼくの両親はぼくがまだ幼い時に離婚してしまった。父親の経営していた会社はバブル崩壊とともに倒産し、多額の借金だけが残った。それだけ抜き取れば、なるほどたしかに不幸かもしれないが、そのおかげで、ぼくは数多くの稀有な体験をできたと思う。ヤサグレたおかげで、数多くの大切な仲間たちと出会うことができた。また、甘やかされていた幼少期から抜け出し、30を越えたあたりから、ようやく少しはまともになってようだ。これがもし、親に財力があった場合、今頃どうなっていることやら……。
反面、いちおう両親は健在で、たったひとりの兄も、まあ生きている。これは幸福だろうか。否、ぼくにとってはあまり歓迎できることではない。それぞれが、まともに生きられないのにスタンドプレーをしているからだ。詳しくは言及しないが、おかげで、たくさんの時間も金も労力も使った。大切な仲間にいらぬ借りもつくってしまった。今はただ、目の前の仕事に全力を尽くし、いち早く稼ぐことで、恩返しをしたいと考えているばかりだ。こういうことを、ぼくは「良い経験になった」とは思わない。やはり、ドス黒い記憶はドス黒いままなのだ。
そうやって、諸行無常の塞翁が馬な世界を生きているぼくらが、もし最善の選択をしようと思ったなら、やはり「なんでもやってみる」しかないと思う。もうね、躊躇したらその時点で負けなのかもしれない。だって、チャンスは二度とやってこないかもしれないし、時間はただただ過ぎ去っていくだけだから。「ちょっと考える」なんて言っているうちに、幸運の女神はどこかに走り去っているかもしれない。愛する人は命を落としているかもしれない。立ち寄るべき町はすでに荒廃してしまっているかもしれない。すべては実際にあり得ることなのだ。
小田実の『何でも見てやろう』ではないが、「なんでもやってやろう」という気概は、ただの精神論とか格言にしておくのではなく、たった一度の人生で少しでも多くの楽しいことを経験するために、とうぜん必要なことなのだ。なんだか、似たようなことを幼いころからくり返し言われてきた気もするが、それを実感をともなって理解できるのに、これだけの時間を要しているというのだから、甚だ肩を落とすばかりである。しかし、そんな時間ももったいない。「なんでもやってやろう」は、時間も体力もふんだんに使うのだ。
あと何年生きられるかなんて、誰にも分からない。分かるのは、今までに何年生きてきたかということだけ。そして、生きてきた中で学んだことを生かし、どのような選択をするのかということ。それだけが、唯一大切なことだろう。あとのことは、すべて瑣末な取るに足らないことである。ただ、やる。それでいい。そうやって残りの人生を生きていこうと思う。投げやりになるだなんて、とんでもない。不摂生な生活をおくるだなんてもってのほかだ。なんでもやる人生には、時間も体力も必要なのだ。戦略的にならなくては。
最近よく、スティーブ・ジョブズの「点と点」の話を思い出す。知らない人のために簡単に説明しておくと、つまり、過去の経験をそれぞれ点としてとらえ、現在の仕事ないしは趣味や生活に生かしていくということだ。たとえば、たまたま専攻していたカリグラフィー(文字を美しく見せるための手法)と、会社を追い出されたことで身につけた自分に対する厳しさを、Macというイノベーティブな商品開発に生かすというように。誰もができることではないだろうが、意識してみると、なるほど過去の経験もまた意味があったように思えてくるから不思議だ。その経験が、果たして良いものだったか、それとも悪いものだったかなど、とうぜんながら取るに足らないことなのである。
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