贅肉が落ちていく音に耳を澄まして

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 あるときから、僕は“言い訳”を考えるようになった。「どうせつまらない」「あいつがいないなら」「そこに何の得がある?」などと。どれももっともらしく響いてくる。昔なら考えられないことだろう。ただ参加する。それで後悔することは何度もあった。 

 20代は、何かから逃げるために、あるいは生きるために、酒・煙草・ギャンブルに溺れてきた。とくに後悔はしていない。それでいいと思っていたし、悪いことだとも思っていない。いずれにしろ、自らそのツケを(あるいはその業を)背負えばいいと思ってきた。

 ただ、30代も半ばに差し掛かり、自分が何をするためにこの世に生を授かったのかがおぼろげながら見えてくると、途端にやりたいこと・やるべきことが溢れてくる。過去の悪習をすべて放棄しようと思うのは自然なことだ。なぜなら、圧倒的に時間が足りないのだから。 

 過去の悪習を正すことは、自分だけでは完結しない。いわゆる「つながり」や「つきあい」みたいなものと対峙し、自らの中で腹落ちしたうえで、関係性を断ち切る必要にも迫られる。表面上は飄々としているように見えるが、その実、身を切るような思いがする。

 その過程において、「自分は何も愉しんでいなかったのではないか」とすら思えてくる。あのとき、僕らはともにいて、ともに時間を過ごし、ともに愉しんでいるかのように思えた。だが、本当にそうだろうか。自分の胸に聞いてみる。「僕は変わったのだろうか」。

 たぶんそうだろう。僕は変わった。変わるべくして変わった。進化論の中にいるあらゆる生命体のように、僕もまた進化(あるいは退化)したのだろう。とにもかくにも変化はあったのだ。良きにつけ悪しきにつけ。いや、変化に悪いことなどないとすら思えてくる。

 もちろん、僕はただ自分を正当化しようとしているのではない。心の声にきちんと耳を澄ましてみたいのだ。自分と向き合い、あの頃の記憶とすり合わせてみる。そして、静かに呼吸を整える。すると、「そうだね。たしかに嘘があったよね」と聞こえてくる。 

 そうなのだ。僕は無理をしていて、背伸びすることによって周囲に合わせようとしてきた。そしてその度に、自らの内側から生じる反発に反駁してきた。やがて自分の声に耳をふさぐようになり、場合によっては黙らせることもあった。悪習はそのためのツールだ。

 現に、僕は過去の交友関係を清算しつつある。時間が惜しい。あらゆる悪習を断ち切るべく修行中の身としては、無理に自らを(内面も外面も)着飾ってまで、表に出て行きたいとはもはや思えぬ。少なくとも、それが自然体の自分であり、本来の自分なのだから。 

 「あのころ僕らは若かった」というのは容易い。「だから、仕方ないのだよ」という声も聞こえてくる。だが、そこに甘んじてはいけない。僕らは本当にくだらない時間を過ごし、くだらなく駄弁り、夢や可能性を放棄しては、自らの声を封殺してきた。 

 思い出すなつかしい日々。それらは甘く切なく、ときに名状しがたい感情を含んで呼び起こされる。ただ、その裏側にある自らの声と合わせて受け入れなければ、ただの淡い記憶となってしまう。ノスタルジーに浸っていいのはモラトリアムの学生か世捨て人だけだ。 

 僕らには、やるべきことがある。やりたいことも、やらなければならないこともある。悲観的にではなく、自らの未来を切り拓くために。そして、これから生まれてくる若い世代に何かを残すために。身を切るような思いで、僕はこれからも関係性を断ち切るだろう。

 きっと賢明な人々は、「それが大人になるということだよ」とさも分かったようなことを言いそうだ。だが、それは嘘である。自らの声を封殺することは“大人になる”ことではなく、ただ“飼いならされた”結果だろう。それでは、関係者がすげ変わるだけだ。 

 そうではない。僕たちはいま一度、生まれたときのように、「個」に戻り、自分に返り、自らの声に耳を澄ませる必要がある。断ち切るのではなく、贅肉を落とすために。余計なツールはいらない。必要なのは謙虚さと聞く耳だけ。なあに、悲しいのは最初だけさ。

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