余暇としてのスポーツ観戦には虚しさを禁じ得ない

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 空いた時間に何をするか。

 それは、自らがもつ有限の資産をどのように活用し、人生における究極の目的“幸せ”へと向かうべきなのかを、実践の中で比較検討する、至極、個人的な、そして戦略的な有り様である。それが、個々人の生き方となる。

 つまり、空いた時間で何をするのかということが、その人の人生を規定すると言っても過言ではない。

 ここであえて、「空いた時間」と表現しているのは、現代人の多くが「責務としての時間(仕事や学業など)」に追われている実情をふまえてのことである。どんな仕事をするのか、何を学ぶのかといったことは、議論の対象ではない。

 さて、私はスポーツ観戦が苦手だ。否、苦手というよりは“苦手になった”と言った方が正確だろう。かつてのように、何時間もスポーツ観戦をすることに、意義を見出すことができなくなってしまったのだ。

 たとえば、サッカーの試合を見たとする。比較的、世間の関心度が高い日本代表の試合を例にとろう。試合を見る。なるほど、点をとったりとられたり、熱狂するシーンもあるかもしれない。ただ、結果がどうあれ、試合後に残るのは“虚しさ”だけだ。

 応援していたチームが(この場合は日本代表)勝ったとする。なるほど、うれしいかもしれない。ただ、そのうれしさは一時のもので、すぐ、我に返ることになる。「自らの人生が好転するわけではない」、と。その厳然たる事実が、虚しさをもたらすわけだ。

 あるいは、応援していたチームが負けたとしよう。なるほど、悔しいかもしれない。だが、その悔しさ、負のエネルギーはどこにも向けられない。なぜなら、自分にはどうすることもできないからだ。まして、やけ酒を飲むなどもっての外である。それこそ時間の無駄だ。

 もし、自分が選手として試合に出ていたのなら、「あの場面であのプレーができたなら、戦況は変わっていたかもしれない」「敗因は集中力の持続力にある。今後の課題はフィジカルと運動量だ」などと考え、次に生かすこともできるだろう。

 しかし、自分はただの観客である。つまり“外野”なのだ。評論家でもないのに評論家ぶって議論しても何ら生産的ではなく、また、そこに意義があるとは思えない。結局のところ、蚊帳の外で喚いていても意味はない。事実、何ら改善につながらないのだ。

 また、選手が申し合わせたかのように述べる「みなさんの応援が力です」という言葉を真に受け、「自分たちの声が選手に力をもたらすのだ」と健気に信じるだけの若さは、もう、ない。それが歳をとったということだとしたら、きっとそうなのだろう。

 もっとも、私が言いたいのは「すべてのスポーツ観戦は無駄である」ということではない。「余暇としてのスポーツ観戦に意義を見出すのは難しい」ということである。それは、現在の自分からみて、まごうことなき真実なのだ。

 大声を出すことでステレス解消になる。飛んだり跳ねたりすれば運動になる。みんなで同じことをすれば一体感を得られる。そのようにこじつけて考えてみても、他にいくらでも効率的・効果的な方法がありそうだと思えてくる。

 もちろん、出口治明氏が述べているように、「喜怒哀楽の総和が幸福につながる」という信念があるのなら、感情を揺さぶられる体験も尊いものなのだろう。だがそれでも、終わった後の虚しさは消せない。どうせなら、“自分が主体となっている喜怒哀楽”がいい。

 なんだか「つまらない人間になったな」という声が聞こえてきそうだが、歳をとるということはつまり、選択肢が狭まるということであり、そのために判断力や決断力を高めてきたはずだろう(一方で体力や集中力は失ってきたわけだけど)。

 だから、それでいいのだと思う。すべては自己責任であり、個々人の人生であり、所詮、嗜好の問題なのだから。好き嫌いを度外視して語られる事柄など、人生全体からみれば、取るに足らないことである。

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