ピケティの『21世紀の資本』を読んで(実際は荻上チキさんの「セッション22」で翻訳者である山形浩生さんの解説を聞いたり、webのニュースや解説記事を読んだだけだけど)、あらためて格差は広がっているのだと実感した。
最初は「だからどうした」「何をいまさら」と思っていたけど、詳細なデータをもって示されるとどうしても考えざるを得なくなる。“格差について、誰もが自分のこととして考え、議論しなければならないと気付かされた”という意味において、本書はやはり意義深い書籍なのだろうと思う。
ただ、各所で言われているとおり、ピケティは格差に対する具体的な対策を示していない。世界規模の累進資本課税というのも、技術的にはともかく現実的ではまったくない。現実的に無理なことは対策とは言えず、ただの妄想でしかないのは言うまでもないだろう。本来なら政治家が行うべき格差への政策立案を、いち経済学者に求めるのは酷だと言われればそれまでだが。結局のところ、選挙権・被選挙権をもつすべての人が当事者となって考え、行動していかなければならないのだろう。そう考えると、投票に行かないなどもってのほかである。
投票に行かないということで言えば、その筆頭は若者(おおむね20代)というわけだが、彼らが投票に行かないのもムリはない。なぜなら政治は「よく分からない」「つまらない」「けっきょく何も変わらない」の三拍子だからだ。それなら、とりあえずゼミの課題を片付けたり、好きな異性とデートしていた方が有意義な時間の使い方と言えそうだ。親孝行やご先祖様の墓参り、あるいはボランティアのようないわゆる“賞賛される”行動でないまでも、まだ、“投票に行くよりは価値がある”というイメージが蔓延している。だから、投票に行かないのもムリはない。
ピケティが日本で記者会見していたのがニュースになっていたが、そこで語られていたのが「若い人たちへの優遇策」とのこと。発言の詳細を知らずに意見するのはフェアじゃないかもしれないが、違和感を感じずにはいられないのも事実だ。というのも、格差が広がっているから立場的に苦しい若者を支援して、それで果たして格差が減るのだろうか。むしろ、お金を持っている人に対して適切に課税する方法を模索する方が建設的な気がしてならない。資本主義、民主主義では競争があってしかるべきだと思うし、そこには少なからず差が生じていいと思う。
そもそも、特別な場合を除けば、富裕層に所得があるのは「頑張ったから」だ。ここで特別な場合と言ったのは、それが「相続や親の地位・名誉を受け継いだ場合」を除外したかったから。本人の実力や頑張りではなく、たまたま受け継いだ人が富裕層となりその地位を継続していくのは、どうしても本人のためにならないと思えて仕方がない。それはそのまま、ピケティが述べている「若い人たちへの優遇策」にも言える。若いうちから優遇されて、それで果たしてリスクを負ってまで挑戦したり、血反吐を吐くまで頑張るようなモチベーションにつながるのだろうか。
生きること、子孫を残すことが生物の究極の目的だと考えたときに、「とりあえず生きていけるならムリをしない」というのが、もっとも一般的な発想ではなかろうか。そつなく生きていても、相続や若者への優遇策があることによって報われるのなら、それでいいやという日和見主義的な発想が生まれても仕方がないのではないか。それが本当の意味での“ゆとり”であるし、かつて日本が驚異的に成長した戦後復興期や高度経済成長期など夢のまた夢になってはしまわないか。成長が見込めないからこそ、若者が中心となって奮起することこそ正しいことなのではなかろうか。
必要なのは優遇策などではなく、正しい努力、正しい頑張りが、正しく評価され報われる社会であろう。頑張った人が富裕層の仲間入りした途端に、多額の税金を徴収されてしまうのとは真逆の発想である。では、富裕層からいつ税金を徴収すれば良いか。簡単である。頑張りを否定してしまうような、格差を助長してしまうようなシチュエーションから徴収すれば良いのだ。勘の良い方はすでにお分かりかと思うが、つまり「相続税」である。反面、頑張って富裕層になった本人が使う場合には、大いに自由に使わせてやればいい。その人が死んだ場合のみ、伴侶が一部、残りを国が回収して、最貧層の社会保障にまわせばいいのだ。
政治家の立場から考えれば、格差が拡大してもっとも恐れるべきなのは革命であって、それはフランス革命でも日本における全国規模の一揆でもそうなのだが、つまり秩序の乱れである。もちろん票が得られないと政治そのものができないのだが、とりあえず選挙のときには「格差、なんとかしますよ」とでも言っておいて、「そう言えば格差ってどうなったの?」とお茶を濁すことも可能なのだから。まあ相続税を高くしすぎると票を得られないどころか、「政治家になる意味がない」、なんて言う人も大勢いそうだけどね。
ピケティのように「アベノミクスどないやねん!?」という経済学者が出てくるのは、国民にとっては考えるきっかけとなって良いと思うのだが、政治的には“迷惑”なんだろうね。やっぱり。
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