「センスがいい」あるいは「センスが悪い」というように、普段から何の気なしに「センス」という言葉を使っている人は多い。たいていはデザインやファッションに関連した場面で聞かれるが、ときには曲がって停車している車に対して「この車センスないなぁ」などと使う人もいる。
そうした声を聞くたびに、違和感を感じつつもまあそういうものかなと自分をごまかしながら生きてきた。いわく、よくよく考えてみれば大したことではないじゃないか、と。いや、本当は大したことなのだよこれが。
理由は簡単だ。センスのあるなしを先天的なものとしてとらえてしまうと、それだけであらゆる可能性が排除されてしまうから。たとえばぼくの場合には、昔から美術のとくに写生が苦手でつくづく「ああ、自分にはセンスが無いのだなぁ」と思いつつ、キャンパスいっぱいを灰色に塗って「タイトル、『曇り空』」などと命名して提出したものだ。おかげで美術の成績はさんざんだった。図工は好きだったけどね。美術はダメ。だから自分にはイラストとかデザインのセンスはないのだと思ってきた。
実に30年間も、である。長い。これを大きな損失と呼ばずして何と呼べばいいだろう。方法論を突き詰めればいくらでも稼げる(であろう)お金などとは異なり、時間に関してはもはや二度と取り戻せない。できることと言えば、腹ばいになってジタバタするか、酒でも飲んでウサを晴らすか、あるいは失った時間のことを頭の片隅に追いやり懸命に努力することぐらいだろう。「そのほうが建設的だ」などと分かったようなことは言われたくない。少なくともセンスがあると自称している人には。
話がそれたが、つまりセンスというのはただの便利な言葉でしかないのだ。センスがある、センスがない。「そうだよな、お前にはセンスがないもんな」。バッサリ。反論の余地など与えない。なぜならセンスがないのだから。これほど使い勝手の良い言葉があるだろうか?(いや、ない。)あたかも生まれ持ったもののような言い方をされ、評価されている人を尻目にどんどんセンスが問われるものを忌み嫌っていく人は、もはやその対象物に努力を費やすことはなくなるだろう。
果たしてその人に「努力する」、あるいは「好きになる」才能があるかもしれないのに、である。センスとニュアンスが似ている言葉に「才能」があるが、こちらの場合は天才と秀才という言葉に分けられるからまだ救いがある。たとえ自分のことを天才だと思えなくても(ほとんどの天才は他称だが)努力次第で一角の人間になれるかもしれない。いわく秀才に。そう考えれば、センスうんぬん才能うんぬんではなく、好きなコトに対して時間も労力も惜しみなく投入する価値がでてくるというものだ。
結局のところ、センスなんてものは魔法でも才能でもなくて、あとからいくらでも身につけられる知識の集合体でしかない。そう言えば、ぼくは自分に美術的、あるいは音楽的なセンスがないと思ってきたけど、洋服のセンスに関しては褒められることが多々あった。だからもっと勉強したし(ファッション誌を読んだり、待ち行く人を観察した)、それでもっと自分のファッションセンスに磨きがかかったものだ。自信も醸成された。なぜ、そのことにもっと早く気付けなかったのか。
たぶん、センスというのは一部の人間だけが持っている特権のようなもので、世の中のほとんどの人はもともとセンスがない、とぼくが思い込んでいたからだろう。貧乏な人に「お金を稼ぐのなんて簡単だよ」と言われても説得力がないように、センスがない(とぼくが勝手に思い込んできた)一般の人に「センスがなくても大丈夫だよ」と言われても素直に首を縦にふることができなかったのだ。慰めの言葉はありがたいが、決して腹落ちすることはない。「どうもありがとう」。それだけ。
しかし、センスがある、少なくともセンスがあると世間から評価されている人が、「センスは後からでも身につけられるから大丈夫」と言うのであれば、これは大きな救いとなる。腹落ちする。だってセンスがある人がそう言うのだから。「自分も昔からセンスがあったわけじゃない。努力によってセンスを身につけた。つまり、センスとは知識が結集したものなのだ」。閉ざされていた窓が大きく開け放たれた。センスという目に見えない壁がなくなったのだ。
自らに、無意味なカセをはめる必要はまったくない。好きなことを見つけたら、あるいはやりたいことがあるなら存分に努力すればいい。「凡人程度にはなれるかもしれない」などという言葉にまどわされず、ひたすら限られた時間を有意義に使えばいい。少なくとも、センスは後から身につけられるのだ。何度も何度も車庫入れを練習すれば、いずれは白線の内側からはみださずに車を停車させることができるようになるだろう。そのときハッキリと気づくはずだ。「なあんだ、ぼくにもセンスがあったんだ」、と。
朝日新聞出版 (2014-04-18)
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